令和5年1月14日(日)
「埼玉吹奏楽コンクール新人戦」という実行委員会形式の大会から、高等学校文化連盟吹奏楽専門部会主催の公式大会になって3回目となりました。
紆余曲折を経て現在の形になり、課題は山積みですが少しずつ前に進んできたという実感があります。
結局、今年も事務局を担当して実行委員の皆さん、参加団体の皆さんに助けて頂いて何とか無事に終える事が出来ました。
とりあえず、昨年のような大きなミスは無くて良かった・・・。
コンクールとは?
先日SNSにて、「こんな時期もコンクールをやるなんて、本当にコンクール好きだね!」という趣旨のご意見を見ました。
「コンクールが好き」
と言われると、「好き」とか「嫌い」なんていう次元で行事に取り組んでいるわけではない、と杓子定規に反応したくなります。
もちろん、そういう意見には理解できますし、少なからず賛同する部分もあります。
そもそも「新人戦」という名称を何としても変えたかったのは、「音楽は戦いではない」という、上記の方と同様の方向性を持っての判断でした。
そもそも私自身が一般吹奏楽団に長く所属し、コンクールではなく自主公演を中心とした活動で音楽を楽しんでいます。
それでも、学校現場で指導する際にはコンクールを最大限活用しています。
全ては、「生徒の成長」のため。
実は「指導者の成長」のためでもあります。
では、コンクールで生徒、指導者が劇的に成長するのはなぜか。
それは「競争」があるからです。
勝ちたい、負けたくない、満足、達成感、悔しい・・・etc.
この感情が、人の行動を変えるために重要な要素になるのです。
アダム=スミスの提唱したレッセフェール(自由と競争の保証された状態)は、人間の本質に根差している理論なのだと思います。(経済は人間とは何か?というテーマと切っても切れません。「経済行動学」という学問が比較的新しい分野として注目されています。)
みんな平等の「共産主義」(全員が平等な労働者。競争の無い社会)が失敗に終わったことに通じると思っています。
指導者として「生徒の成長」のために「コンクール」を利用する。
これが私のスタンスです。
彼らが成長するのであれば、どんなチャンスでも使います。
コンクールの功と罪
確かに、音楽は自己表現。
自分らしさを発揮して、聴衆に伝えて、それが重なり合う感動でしょう。
また、音楽そのものを自分の中に取り入れて、外に伝える喜びも素晴らしさです。
でも、部活動、学校教育活動の一環であることを踏まえれば、「生徒の成長を最大化させる機会」を利用しない手はありません。
コンクールに向けて頑張ろう!はシンプルです。
悔しい思いをして、それを受け止めて、諦めないでまた一歩進む。
時間をかけて積み重ねたことが、人から評価されることで自信が生まれる。
教育活動としては十分すぎる内容ではないでしょうか?
こんな経験をした人間こそ、社会で求められているのではないでしょうか。
何より、指導者、指揮者が審査員、観客(他校の生徒、保護者の皆様)にさらされることで、より一層精進するきっかけをもらえます。
コンクールは成長の場。
ですから「コンクールで金賞を目指す!」は、生徒にとって分かりやすくてとても良いのです。
昨日も練習の最後に言いました。
「音楽は上手になればなるほど楽しくなる。」
いや、もっとはっきり「下手じゃ楽しめないよ。」とも言いました。
でも、これは部活だから使う言葉です。
「上達する」=「練習する」=「今の自分と向き合って、諦めずに努力すること。」
これを100%肯定します。
あくまでこれは指導者それぞれの価値観だと思います。
私は「成長の最大化」のために「コンクール」を使う。
それだけです。
そして私は単純に悔しい!
厳しい結果がでるだろうと分かっていても、結果が出れば悔しい!
もっとああすれば良かった、こうすれば良かった。
今目の前にいる生徒に対して、自分はもっとやれたのではないかと深く反省するのがコンクールです。(年間数えるほどの飲酒と寝られない夜です)
演奏会が終わった後に、こんな気分にはなりません。(私個人の感想です・・・)
ということで、またこれから頑張ります。
こやって日本の吹奏楽は世界でも類を見ないレベルにまで到達したのでしょう。
皆さんで「吹奏楽部」を盛り上げましょう!
コメント