今日も論述問題の解説動画をアップしました。楽器庫での撮影にも慣れてきました。少し寒いですが・・・。打楽器の皆さんは冬の時期の練習は本当に大変ですね。身に染みて分りました。
第2次世界大戦後の「台湾」
以前にもお勧めした 門田隆将著『この命、義に捧ぐ ー台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡』では蔣介石の国民党を助けた、日本の陸軍中将の英雄譚がつづられています。
さて、ここでは国民党を助けた!という美談にグッときますが、今回はもう少し客観性を持って台湾の歴史を見て行きます。
「冷戦」と台湾
指定語句は
「NISE」、「ニクソン訪中」、「日中国交正常化」、「李登輝」、「冷戦」
とあります。ここから、大きな流れとして「冷戦」と「台湾」という流れが見えてきます。
世界中の国々が「冷戦」の影響下に置かれました。日本はもちろん、「台湾」も米ソ対立に巻き込まれつつ、したたかに生き抜いてきた国家と言えるでしょう。
まず「NISE」ですが、1970年代 台湾は急速に産業を発展させます。
その政治体制は「開発独裁」です。これは広く見られる政治体制です。
東アジア、東南アジアでも
フィリピン フェルディナンド・マルコス政権
インドネシア スハルト政権
韓国 朴正煕
シンガポール リー・クアン・ユー
そして、中華民国(台湾)の蔣介石です。
台湾は電子機器分野で大きく成長しました。これは現在も世界でトップレベルの技術を誇っています。1970年代の繁栄は、「台湾」が抱える危機感に後押しされたとも言えます。
ニクソン大統領 訪中
ニクソン大統領はやっと大統領になりました。よもやのJFKに敗北・・・。
ところが、ニクソンが大統領に就任した時のアメリカ合衆国は深刻な財政危機を迎えていました。
各国の経済復興、西ドイツの繁栄(1950年代末にはGDP世界第2位になる!)、そして1960年代日本の高度経済成長(1969年GDP世界第2位になる)。アメリカ合衆国の一人勝ちの時代は終わりました。
さらに、東西冷戦の中で「熱戦」であるヴェトナム戦争の泥沼化。
1971年 ニクソン大統領は「米ドルと金との兌換を一時停止」を発表しました。
いわゆる「ニクソン・ショック」です。
1945年 第2次世界大戦後、アメリカ合衆国の巨大な経済力を背景に「米ドル」を基軸通貨とする国際経済体制が成立しました。
「基軸通貨」 1ドル=金1オンスと交換
ドルは円など各国の通貨と「固定相場」にて交換する事を定めました。
日本の場合 1ドル = 360円(「円」360℃から・・・とも言われますが)
国際的な信用がない円も、ドルと交換できるならばと各国が保有してくれます。これにより、日本と海外の貿易が可能になり、復興する事が出来たのです。
このようにドルの信用を背景に、各国が世界大戦後の復興に努めました。
これを「ブレトン=ウッズ体制」と言います。(会議が行われた場所の名前から)
しかしながら、アメリカ合衆国の金保有量は1945年当初22,000トンから、1971年には8,000トンへと激減していました。このまま金との兌換が進めば、アメリカ合衆国の経済信用は失われてしまいます。
この金流出に危機感を持ち、アメリカ合衆国政府は各国へ兌換を止めるよう警告したにもかかわらず、思い切りドルと金兌換を進めた国があります。
それはフランス。
何と3億ドル=金300トンの兌換を、素知らぬ顔で進めました。フランスがアメリカ合衆国の事をどのように考えていたのかが分かりますね。この流れで、EUが作られていくのです。
さて、ニクソン大統領が中国との関係改善に舵を切ったのは、「敵の敵は味方」の論理です。
毛沢東は1950年代後半~60年代初頭に主導した「大躍進政策」の大失敗により、共産党における主導権を失いました。これを取り戻そうと虎視眈々と狙っていたのですが、
1 ソ連との関係悪化
2 国内の民族運動(チベット動乱 など)を劉少奇、鄧小平政権を批判。
3 文化大革命 ライバルの一掃。
という感じで、共産党の主導権を奪い返します。
ソ連との関係悪化は、フルシチョフが1956年「スターリン批判」と呼ばれる劇的な方針転換(それまでの政治を批判)を行い、訪米するなど米ソ関係において「雪解け」政策を展開すると、毛沢東はこれを猛然と批判します。
中ソ公開論争、そして実際に領土問題から中ソ国境紛争へと発展しました。1969年にはダマンスキー島事件では軍事衝突に発展し、「核戦争」にも発展しかねない緊張をもたらしました。
これにより、中国とソ連の間に亀裂が生じたため、アメリカ合衆国が中国に接近したのです。
1972年 毛沢東と会談して米中共同宣言を発表し、世界に衝撃が走りました。
この時に、かねてより国交回復のために動いていた日本と中国の関係も大きく動きます。
1972年 田中角栄首相の訪中、毛沢東国家主席、周恩来首相と会談が実現しました。
※ここにいたる佐藤首相、沖縄返還などの流れはまた別の機会に。
さて、「台湾(中華民国)」
このアメリカの方針転換により、それまで保有していた国際連合の代表権を奪われてしまいました。
アメリカ合衆国との関係、日本との関係も微妙な流れになります。
この激動の1970年代に、「台湾」は国家存亡をかけて産業育成に注力したのです。
李登輝
1988年 初めて本省人(世界大戦前から台湾に住んでいた人々の総称)の総統が誕生しました。
蔣介石 1975年死去 息子の蔣経国と開発独裁が続きました。1988年に蔣経国が死去すると、副総統の李登輝が総統になりました。
台湾では本省人と外省人の激しい対立が問題になっていました。
蔣介石の国民党一派を「外省人」と呼びました。彼らは大きな力で政治、経済を牛耳っており、「本省人」の人々は強い不満を持っていました。
これは台湾の友人から聞きましたが、台湾人の親日の背景にはこの対立があるとのことでした。
台湾では「犬の後に豚が来た」と言うそうです。犬=日本、豚=蔣介石 なかなかの表現ですね。
さて、李登輝は中華人民共和国との融和政策を取ります。国民党からの脱却です。
世界は激動の時代。
1989年 マルタ会談 米国大統領 ブッシュとソ連 書記長ゴルバチョフによる会談。
これをもって、「冷戦」は終結しました。
すると中華人民共和国はソ連との対立から、米国の支援を受けられていたのですが、これが怪しくなります。
そこで、1989年 GDP世界20位、一人当たりのGDP世界34位(中華人民共和国 120位)の台湾からの投資、支援は大変な魅力だったのです。
さらに、1989年6月4日 第2次天安門事件が起こります。
民主化を求める学生を中心に起こったデモに対して、戦車を含む人民解放軍による軍事鎮圧を行った事件です。詳細なデータは不明。これにより、中国共産党は国際的に孤立してしまいます。
このような背景により、李登輝が総統の間は台湾と中華人民共和国の関係は良好に保たれました。
しかし、時は流れて21世紀。中華人民共和国は劇的な経済発展を見せます。
2000~08 第5代総統 陳水扁 は中華自民共和国と距離を取り、関係は急速に悪化します。
2008~16 第6代総統 馬英九 は中華人民共和国と融和姿勢。
2016~ 第7代総統 蔡英文 は中華人民共和国と対立。
現在は中華人民共和国が「台湾は中国の一部」という立場を国際的に表明しています。
また、中華人民共和国の経済力、政治的影響力が増すとその圧力から、台湾と外交関係を結ぶ国は減っていきたったの現在15カ国にとどまっています。
台湾の歴史はまさに、「冷戦」に翻弄されてきました。
これからさき、「台湾」はどのようになっていくのでしょうか。これは「香港」と同じく、注目してまいりましょう。
以上、第2次世界大戦後の「台湾」でした。
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