明日には埼玉県教育委員会より「部活動は禁止」という指示伝達がくるそうです。
はやく「緊急事態宣言」が解除されることを願うばかりです・・・。
このやり場のないエネルギーを何かにぶつけなければ!
ということで、久しぶりに「動画」の撮影をすることにしました。
動画編集!
それにしてもあまりに長い間やっていなかった動画配信。現代史補習をLIVE配信してましたが、録画して編集してアップするのは一体いつ以来でしょうが・・・。休校解除以来やっていないような気がします。
本当に久しぶりに過ぎて、色んなことを忘れてしまっていました。
まず、いきなり動画を編集もしないでYouTubeにアップロードしてしまいました・・・。何やってんだか・・・。そこまで忘れるとは自分でもびっくり?!
編集ソフト filmora9
を立ち上げると、ソフトウェア更新のアップロードがかかっているのを無視すると、ログインできなくなって、慌てて色々いじったら危うくもう一回買ってしまいそうになってしまいました・・・。
永久ライセンスを購入していたのに、年間ライセンスだったかな~と勘違い。
忘れまくってます。
何とか無事に編集をして、音楽もつけちゃったりして、とりあえず終了。
筑波大学 世界史論述問題(動画)
今年は筑波大学を受験する生徒を担当しています。本当にまじめ、一生懸命に論述問題に取り組んでいます。素晴らしい!心から応援しています。
ということで、せっかくなので「筑波大学」の過去問題をこれから随時アップロードしていこうと思います。気持ちは毎日1問!出来るかな~。
ちなみに、撮影する教室が無くって学校内をさまよい・・・。最終的にたどり着いたのは、何と「楽器庫」でした。いや~ちょうどよいホワイトボードの大きさで、こんなにぴったりの場所があったとは!
何よりうれしいのは、必ず使える!(授業中であれば)という事です。
これからは「楽器庫」が撮影スタジオになります~。よろしくお願いします!
ということで、映像はこちらです!
ちなみに、サムネイルも久しぶりに作りました~。これも忘れてる~。
東京大学はやっぱりすごい!
実際に3年生の演習授業で取り組んでいるは「東京大学」の問題。
なぜかと言えば、それはもう一言。
素晴らしい!
教科書と資料集の知識でしっかりと解答できる、王道の問題なのです。
基本的な知識を土台に、「時代」、「場所」を横断的にみる世界史的思考を求められます。このような素晴らしい問題と毎年向かい合う事で、私自身がとっても鍛えられています。
東京大学の問題は、受験生のみならず誰にも学ぶ価値があると思います。
歴史の認識が深まる、そして現代の理解が進む素晴らしい問題なのです。
2020年 東京大学
第1問
国際関係にはさまざまな形式があり、それは国家間の関係を規定するだけでなく、各国の国内支配とも密接な関わりを持っている。近代以前の東アジアにおいて、中国王朝とその近隣諸国が取り結んだ国際関係の形式は、その一つである。そこでは、近隣諸国の君主は中国王朝の皇帝に対して臣下の礼をとる形で関係を取り結んだが、それは現実において従属関係を意味していたわけではない。また国内的には、それぞれがその関係を、自らの支配の強化に利用したり異なる説明で正当化したりしていた。しかし、このような関係は、ヨーロッパで形づくられた国際関係が近代になって持ち込まれてくると、現実と理念の両面で変容を余儀なくされることになる。
以上のことを踏まえて、15世紀頃から19世紀末までの時期における、東アジアの伝統的な国際関係のあり方と近代におけるその変容について、朝鮮とベトナムの事例を中心に、具体的に記述しなさい。解答は、解答欄(イ)に20行以内で記述しなさい。その際、次の6つの語句を必ず一度は用いて、その語句に下線を付しなさい。また、下の史料A〜Cを読んで、例えば、「〇〇は××だった(史料A)。」や、「史料Bに記されているように、〇〇が××した。」などといった形で史料番号を挙げて、論述内容の事例として、それぞれ必ず一度は用いなさい。
薩摩 下関条約 小中華 条約 清仏戦争 朝貢
史料A
なぜ、(私は)今なお崇禎(すうてい)という年号を使うのか。清(しん)人が中国に入って主となり、古代の聖王の制度は彼らのものに変えられてしまった。その東方の数千里の国土を持つわが朝鮮が、鴨緑江を境として国を立て、古代の聖王の制度を独り守っているのは明らかである。(中略)崇禎百五十六年(1780年)、記す。
史料B
1875年から1878年までの間においてもわが国(フランス)の総督や領事や外交官たちの眼前で、フエの宮廷は何のためらいもなく使節団を送り出した。そのような使節団を3年ごとに北京に派遣して清に服従の意を示すのが、この宮廷の慣習であった。
史料c
琉球国は南海の恵まれた地域に立地しており、朝鮮の豊かな文化を一手に集め、明とは上下のあごのような、日本とは唇と歯のような密接な関係にある。この二つの中間にある琉球は、まさに理想郷といえよう。貿易船を操って諸外国との間の架け橋となり、異国の珍品・至宝が国中に満ちあふれている。
こちらの解説はまたの機会に。
筑波大学 2020年
これに比べると、筑波大学は基本のきですね。
今回の問題は「イスラエル」について。これは、受験生で無くても知っておいていただきたい、現代人の基礎知識ではないでしょうか。
ここで少し解説。(動画の内容にプラスアルファ)
イスラエル人
自称。一般的に知られる「ユダヤ人」という名称は他の民族につけられたものです。この名称は前6世紀の頃、新バビロニア王国のネブカドネザル2世が「ユダ王国」を滅ぼし、「バビロン捕囚」が起こりました。この「ユダ」の人という意味です。
イスラエル王国
ダビデ王 位 前1000~前961 ソロモン王 位 前971~前931
偉大な王によって古代イスラエルの最盛期を迎えました。イスラエルの人々にとって、この栄光の時代は理想です。「この時代を取り戻す!」という思いが、「シオニズム」運動(シオンの丘に戻ろう)につながるのです。
ユダヤの人々がここまで差別されるのは、何と言っても「イエス」の死に関わったこと。
これについては、また別の機会に。
とにもかくにも、ユダヤ人はこの後に亡国の民となり各地に離散することになります。(民族離散=ディアスポラ と呼びます。)
現代の「パレスティナ問題」
19世紀 オスマン帝国の支配下にあったパレスティナにはアラブ人(ムスリム)が住んでいました。世紀末にかけてシオニズム運動が広がりを見せると、主に東欧のユダヤ人農民がパレスティナに移住を始めます。
彼らは、シオニズム運動で集まった支援金をもとに、パレスティナの不在地主から土地を購入して、オスマン帝国の臣民として移住していました。イスラエル国建国以前に8万人程がすでに移住していました。
筑波大学の問題は、この19世紀末「反ユダヤ主義」の吹き荒れた時代から始まります。
シオニズム運動の創始者の一人、ヘルツルは、記者としてフランスで起こった「ドレフュス事件」を取材してユダヤ人に対する差別に衝撃を受けました。
また、東ヨーロッパでのポグロム(ユダヤ人迫害)、ウィーン市長には反ユダヤ主義を掲げるカール・ルエーガーが当選するなど、ユダヤ人を取り巻く環境は一層厳しくなっていきました。
ちなみにロシアが最も激しくユダヤ人を迫害していました。
日露戦争の時に、戦争資金を得るため高橋是清が欧州で日本国債の買い付け先を探しました。
誰も日本が勝つとは思っておらず、当然国債も売れません。これを買い付けたのがジェイコブ・シフです。(ドイツ出身アメリカ人の銀行家でユダヤ人。)迫害をしているロシアと戦う日本を応援したのです。この資金が無ければ、日本は戦争遂行が出来ず敗北していたでしょう。
1896年 ヘルツルは『ユダヤ人国家』を出版し、ユダヤ人国家建設を広く訴えたのです。
1897年 スイスで第1回シオニスト会議を開催しました。
実は「イスラエル」建国の候補地はパレスティナ以外にも、南米アルゼンチンやアフリカも候補に挙がっていました。安住の地であれば、世界中のどこでも構わないという状況だったのです。
ちょっと長くなりました!詳しくは動画をご覧ください~。
また、歴史シリーズを書いていこうと思いますので、今後ともよろしくお願いします。
長々とお付き合いいただきありがとうございました!
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