ウクライナ戦争
刻々と情報が伝えられるウクライナ戦争。
個人がスマホで撮影した動画が、そのままSNSにアップされる時代。
ゼレンスキー大統領もFacebookなどを使用して、世界に情報提供をしています。
まさに、この点がこれまでとは全く異なる戦争になっています。
第1次チェチェン紛争
1991~96
ソヴィエト連邦崩壊後、ソヴィエト連邦を構成する国家は「連邦離脱法」に基づいて独立を果たしました。
その後は、緩やかな連合である「独立国家共同体(CIS)」が成立しました。
独立を果たした国家は
バルト三国 ラトビア、リトアニア、エストニア → CISに加盟せず
この独立がソ連崩壊のきっかけを作りました。
※2004年 NATO(北大西洋条約機構)、EU(欧州連合)に加盟。
グルジア 1991年4月9日 → グルジア共和国
ロシア 1991年12月12日 → ロシア連邦
ウズベク 1991年8月31日 → ウズベキスタン共和国
モルダヴィア 1991年8月27日 → モルドヴァ共和国
ウクライナ 1991年8月27日 → ウクライナ共和国
白ロシア 1991年12月10日 → ベラルーシ共和国
トルクメン 1991年10月27日 → トルクメニスタン
アルメニア 1991年9月21日 → アルメニア共和国
タジク 1991年9月9日 → タジキスタン共和国
カザフ 1991年12月16日 → カザフスタン共和国
キルギス 1991年8月31日 → キルギスタン共和国
アゼルバイジャン 1991年8月30日 → アゼルバイジャン共和国
ロシア連邦
第1次チェチェン紛争
ロシア連邦内の「チェチェン」は、「連邦離脱法」の適用外であったにもかかわらず独立を宣言しました。
エリツィン大統領はチェチェンへ軍隊を派遣しました。
首都グロズヌイを激しく爆撃し、多くの犠牲者を出しました。
イスラーム教国「チェチェン」を救うべく、各地から聖戦士(ムジャヒディン)が入国して戦いました。
また、アフガニスタンで訓練された「アル=カイーダ」のメンバーは、ロシア連邦内でのテロ活動を活発に展開しました。
その後、泥沼化したロシアとチェチェンの戦争は、ドゥダエフ大統領の戦死、グロズヌイ制圧の結果休戦条約が結ばれ、1997年にロシア軍撤退で完了した。
第2次チェチェン紛争
1999年 チェチェン共和国が隣国タゲスタン共和国へ軍事侵攻。
また、モスクワのアパート爆破テロにより100名以上の犠牲者がでる。
エリツィン大統領の後継指名を受けて大統領になったのが
「テロリストはどこまでも追い詰める。便所にいてもぶち殺す。」
国家元首のコメントとしてはいかがなものでしょうか・・・。
とはいえ、チェチェン、テロとの戦いで「強いリーダー」を国民に印象付けて支持を盤石にしました。
この第2次チェチェン紛争こそ、プーチン大統領の原点なのです。
首都グロズヌイ、その他主要な都市へ巡航ミサイル、絨毯爆撃により壊滅的な打撃を与えました。
これも、現在ウクライナで見られる状況と似通っています。
テロリズム
2002 モスクワ劇場占拠事件 169名死亡
2003 モスクワ 野外コンサート会場爆破事件 15名死亡
その後も地下鉄、コンサート会場、庁舎などの爆破事件が続きました。
2009年 終戦宣言後も、親ロシア政権と独立派の対立が継続しています。
ロシアがいかにして、支配下のある諸民族を力で押さえつけていたか。
レーニンの出した「平和に関する布告」で、民族自決の原則が宣言を出したソヴィエト政権。
それが、スターリンによって捻じ曲げられ、その後の指導者も方針を変えずに継続してきたのです。
ウクライナ
とは言え、兄弟民族ともいわれるロシアとウクライナ。
一部、ロシア人の中には自分たちを支配者である、という思いが強い層もいるそうです。
しかし、若い世代においてそのような意識はほぼ無いと思われます。(はっきりとしたデータは存在しません・・・。独裁政権下では、国民の率直な意見を知る方法は皆無です。)
ウクライナ第二の都市 ハルキウ(ハリコフ)への攻撃は激しさを増しています。
発表されている死者の数は信用のおけるデータではありません。
しかし、数千人、さらにそれを上回る人々の命が失われている事が予想されます。
一日でも早い停戦が望まれます。
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