鬼滅の刃
とうとう、映画が公開となりました 。本当に楽しみにしていました 。この日を心待ちにし、日々の様々なことを乗り越えてきたので 、ついにこの日を迎えたのです 。次女と一緒に公開日に映画館へ行ってきました 。会場はもう、大勢の人であふれていました 。
ストーリーは既に漫画で公開されているので、ネタバレは問題ないでしょう か・・・・。
とにかく、素晴らしいの一言 。そして、誰もが「続きが見たい!」と思ったことでしょう 。
本作のメインは「猗窩座再来」とある通り、主人公は猗窩座(あかざ)です 。

そして私は、もう一度「無限列車編」が見たくなりました 。
というのも煉獄杏寿郎の人生と猗窩座の人生が対極に表現されていて、そのコントラストは見事です。
この二人の人生を続けて見ると、より深く作品を楽しめるのではないかと思います 。
今回も感じましたが、鬼は恵まれない子供たちばかり。
これに対して鬼殺隊の柱は裕福な家庭で悲劇に会った人も多い。
これも対比でしょうか。
炭次郎も言っていますが、自分も鬼なっていたかもしれない。その違いは紙一重。
誰でも「鬼」になってしまうのです。
受け手として私は、人の形をしていても「生き方」が「鬼」になっていませんか?という問いを感じます。
『鬼滅の刃』と「人生とは?」
ちなみに、私なりの理解ですが、『鬼滅の刃』は「人生」がテーマだと考えています 。それは、『ソクラテスの弁明』で、ソクラテスが「良き市民」として生きることの重要性を語ったことと重なるのです 。
ただ「生きる」のではなく、なんのために「生きる」のか 。
最近、読み返している『チ。ー地球の運動についてー』でも、自分の人生で何かを成し遂げようとする人が、たとえ思いを果たせなくとも、それを「受け継ぐ」ことで人生を全うする姿が描かれています 。
誰もが死の際が「不幸」に見えたのに、「地動説」について求め、守り、そして次の担い手に引き継いで死を迎えた「異端者」が「幸せ」に見えた、というシーンがあります。
私には、煉獄杏寿郎が今わの際に、母親の幻想に向かって「私は生きられましたか?」と問うシーンと重なって見えました 。
「鬼」の生き方
鬼は満たされない思いや不幸があって、人から鬼になります 。強い鬼ほど、長い時間鬼でいる間に、人の頃の記憶を失ってしまうのです 。ある意味、記憶を失って「苦しみ」から解放されているはずです 。しかし、鬼は常に満たされず 、同じ場所をグルグルと回るような、生き地獄を永遠に続けます 。
その直接的な存在として、今回は「上弦の陸」がそれを表しています。
幸せをためる箱に穴が開いている。
ああ、誰でもそう思う事があるよな~と思わせるエピソードです。
私自身もそうですが、自分の子どもにも、また日々接する生徒たちにも、「人生」を見せられるほどの生き方をしているのか…と考えさせられます 。大人がお手本を意識して生きているか 。
今週末の参議院選挙の報道を見るにつけ、改めて考えさせられます 。信念を持って、世界のため、日本のため、誰かのために一生懸命「生きている」人たちの訴えのはずです 。そのはずなのですが… 。
何だか「鬼」のように、同じ場所をグルグル回っている大人が多いように感じるのは、私だけでしょうか 。もう記憶も無くなっているのではないでしょうか… 。
感想、そしてこれから
魅力的で素晴らしい時間でしたが、何だか深く考えさせられてしまいました 。
大人がもっとちゃんとしよう、と 。
この映画を多くの人が見て、「人生」について思うところがあれば素晴らしいですね 。
少なくとも私は考えさせられました 。
そして、もう一回見ようと思います 。
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